初めまして。國米秀明です。福増博士の教えを書いてます。

私は、龍谷大学非常勤講師・龍谷大学短期大学部非常勤講師・敦賀女子短大非常勤講師・仏教文化研究所客員研究員・京都第一日赤附属看護学校院外講師などを務めていたのですが、大学生ころからおかしくなってきていた体調が大学卒後、一気に悪化。

原因不明の疲労感がつのり、寝る前より目覚めた後の方が疲労感が強くなっていきました。

力は強いし、短距離を走るのも人よりは速い。

だが50mを超えると息が上がってもう走れない。

眠れず、朝は起きられない。

立ったまま大声で話すことはできても椅子に座るともう起きていられない。

とてもじゃないが高校教員であれ、専任になれるとは思えなかった。

困ったことに原因が分からないから改善できない。

子供のころの右手の甲のまあまあの怪我のせいで字がきれいにかけず、売り出されたワープロを打ちまくったせいかとも思ったものの、手で書いたほうがもっと疲れるのでそれもできない。

毎日毎日、すこしずつ池の水が干上がっていくのを何もできずにそこにいる池の魚のような心境だった。

かといって、打ち明ければまず入院を勧められ、原因を突き止めるということで検査漬けになり、「これかなぁ」ということで新薬の投与でも始まり、それでもだめなら「手術でもしてみますか」と言われることは明らかだと思っていた。

今にして思えば右胸の下部に熱湯がかかり、毛糸のセーターにしみとおったため、直径数センチほど皮膚が真っ白になってぺろりとめくれた火傷を負っていた。

そのせいで右側の肋骨が下部の方で二本、隣同士でくっついている個所がある。

こういうのは胸郭を構成する肋間筋の自由な動きを妨げることで呼吸制限を起こし、持久力を減じるかたちで強い影響を与える。

脊柱も曲がるのだが、成長期を経ているため、椎体の形そのものが変形している可能性が高い。

そうなるとむやみに見た目だけ脊柱の理想的なカーブを取り戻しても、筋肉の縮みあいで互いの距離を取り合っている胸郭の全体の整合性を崩しかねず、意味がないようなことになる。

30歳半ばになりかけたころ、知人から「比叡山の僧侶があなたにぴったりの話をしている」と告げられた。

どうぴったりなのかもわからないが、僧侶というのはもっと解せなかった。

ただ、知人は知見もあり、私のこともよく知っている人間だった。

他にあてもないので行ってみた。

あとでわかったことだが作務衣を着た人は心臓血管外科医で人工心臓の世界的権威だった。

畳の上に座り込み、素手だけで施術していた。受けてみたら痛みもあるのに心地よく、ぼうっとなって、眠くてしかたなくなった。

みちばたに倒れて寝てしまいたいくらいの眠気になり、なんとか帰宅してそのまま深夜まで眠り、また朝まで眠っていた。

一気に回復はしなかったが回復のための睡眠がとれたのが分かった。

何年かぶりだった。

聴けば、夜の勉強会もやっているという。

最初は気乗りしなかったが、何しろ、何年かぶりに本来の睡眠がとれたのだ。

どういう原理なのか聞いてみてもいいだろうと思った。

これが転機となった。

聞いてみてわたしの不調の原因がやっと分かった。

小二の時、石崖に頭から突っ込み、額を割ったのが根本原因だった。

骨には異常はない。何針か両目の上を縫っただけだった。

筋肉の状態が原因だったのだ。

そこまでの怪我をすると、傷口が完全に治っても慢性筋肉系疲労という状態になり、どこまでも縮もうとするということが分かった。

どこまでも、とは、その箇所だけでなく全身のどこまでも、という意味のどこまでもだった。

小2でその額の怪我をしてからというもの、朝は全く起きられなくなった。

夜はねられない。皆が寝静まってもひとり寝床で本を読んでいた。

短距離ならまだしも、数十メートルも走るとめっきり遅くなりすぐに息が上がるようになった。

そのころからまぶたに毎年、左右交互に麦粒腫ができた。

小4のころから近視となり仮性近視だとされた。

耳かきがきっかけでできた小さな傷がもととなり、小5から中1にかけて左耳の外耳道にできものができた。それはくぼみとして今も残っている。

小首をかしげ、両肩を吊り上げて首をすぼめ、両手を胸の前にもってきたままなのが中1のころの私だった。

近視とは言え0.6ほどで、眼鏡をかけるほどではなかったが、50m離れると誰が誰だか分からず、人を覚えられないのだろうと思った同級生は私を知恵遅れの子だと思っていたらしかった。

そのため、成績上位に名前が張り出されているとよほど不思議だったのか、わざわざ連れて行って教えてくれたりしていた。

中学高校で運動部にも入ったりしたのだがやはり続かなかった。

車酔いもひどかった。

中学の修学旅行では行きの列車の車中で丸一日、横たわっていた。かわいそうだと言われたが教師もどうしようもなかっただろう。

高校ではややましになったが、1500m走では学年でびりから二番目。運動部に入っていない人間込みでだ。

毎日走っていてそれだった。

授業中は起きているだけで精いっぱい。午前中は目を開けていてもほぼ内容は頭に入らなかった。

大学受験は受験勉強無しで受けたようなものだった。

教員採用も同じ。

何もしなかったが生徒の大幅増直前であり、二次も受かった。

が、大学院に進学して本就職は避けた。

原因の分からない体調不良に不安があったからだった。

なんの手掛かりもなく、絶望的だったが、時間を稼ぎつつ、なんとかして解決方法を探ることを考えていた。

幸運なことに福増博士と出会ってやっと何が起きたのかわかったのだが、どう考えても何か月かそこらで治るとは思えなかった。

成長期前に起きた原因は、身体に刻み込まれ、独自の対応が自律神経にも組み込まれてしまうからだった。

理解した私は覚悟を決めた。

親にも誰も相談はしない。

言ったところで理解はできない。

大学での人間関係を口実にして大学教員の職を辞し、高校の非常勤だけ残して夜間の専門学校へ再入学した。

この触手療法を仕事にするには指圧師の国家資格が必要だと分かったからだ。

3年後、指圧師の国家資格を取り、直ちに届け出て開業した。

福増博士の教えは非常に面白く、健康に限らず、子供のころからの疑問が全部氷解していくようだった。

免許を取った直後、母の癌が見つかった。

余命3か月と言われ、母を福増博士に見せ、日赤でがん病巣の消失確認など、あとは母親次第というところまで回復したが、回復を信じない母が一人で怖がって食事をとらずに死んでいった。

やれることはすべてやったので悲しかったが悔いはなかった。

翌年、今度は福増博士が亡くなった。

まさかとは思ったが、重篤な患者を見捨てられず、過労で自ら慢性筋肉疲労に陥ってしまったのだ。

最年長の弟子が指示に従ったがしり込みしてやりきれなかった。

皆、福増博士がそこまで身体を痛めているとは夢にも思わなかったのだ(施術者になればわかるが、地味な印象とは裏腹に触手療法はたしかに施術者の負担は大きい)。

母に続いて福増博士の葬式に参列し、落胆はしたがそうもいっていられなかった。

2007年12月、東北大学医学部が当番校となったJACT・日本代替・相補・伝統医療連合会議、JIM・日本統合医学界(当時)の合同年次大会でパネル発表をし、触手療法のマニュアルを作ってくれと次期学会長・川嶋朗博士に依頼されたりした(複雑すぎるため口頭での指導以外は困難と断った)。

「理想の筋肉・理想の健康」と題したブログを書き、同じ題の電子書籍を試みに出したりラジオに出演もした。

現在は福増博士の教えに基づいた生活を送りながら「百まで健康教室」を西陣織会館カルチャースクールで開講し、福増博士の考案になる自己弛緩自己施術法を教えつつ、触手療法に基づいた施術を行う指圧院を完全予約制で開業しています。

今後もこのままでは埋もれてしまいかねない福増博士の貴重な発見を書き記しておこうと思っています。

令和2年(2020年)5月3日これを記す。