福増廣幸(ふくますひろゆき)医学博士について


1940年愛媛県松山市生まれ。1998年3月、58歳で亡くなる。


但し、この年齢と生年は博士の勉強会で博士が質問に答えた年齢から推測したものである。


松山市の徳農家であり、野口整体で有名な野口晴哉さんの直弟子で整体操法の達人の父のもとに生まれた。


福増博士は、子供のころから、なぜ、医師の手に負えない患者が医師でもない父の施術で非常に早くそれも根本的に治るのか、非常に不思議に思っていた。


福増博士なりに考えて出した結論は、「医学は理論と方法の両方が誤っており、父や義父のようなことをする人は方法は正しいのだがその説明に誤りが含まれている」というものだった。


福増博士は野口晴哉さんに追いつき、追い越すことを子供心に目標にしたということだった。


その目標実現のために東洋医学をやっている医学部のある大学を探すと京大が同好会のようなことをやっているだけだったが、全く無いよりはいいだろうということで東洋医学の研鑽に努める傍ら、京都大学医学部に入った。


最初は体内をめぐる「気」のようなものの追及が大事だろうということで内科をやり、京都大学医学部付属病院の内科部長となったが、「めぐるものなら循環器の方がぴったりだ」と思い付き、心臓外科に入り浸るようになり心臓外科が非常に面白くなってしまった。


内科と外科を掛け持ちするな、どっちかにしろと言われ、心臓外科を選んだ。


やるとのめり込むたちのせいか、日本で三人の心臓血管外科医を選ぶと福増博士の名前が挙がるようになった。


そのころ、アメリカユタ州立大学医学部の人工心臓の研究では世界最先端のコルフ研究所に日本から一人留学させることになり、その人間に当時30代前半だった福増博士に白羽の矢が立った。


コルフ研究所のコルフ博士は人工透析器を発明した人として知られているが、非常に思い切ったことをする人でもあったらしい。


コルフ博士は、福増博士を観察し、何か光るものを感じたのか所長代理の権限を与えた。


福増博士の1冊目の著書によると、その当時、人工心臓による動物生存実験の世界記録は2週間と何時間だったということだ。


世界中の研究機関が必死で人工心臓の性能を上げているのに、なぜか2週間と少しが限界だった。


世界各国、どこもそれ以上伸ばすことができなかったのだ。


だが、福増博士にはやってみたいことがあった。


人工心臓の駆動を限界まで落とすのだ。


人工心臓が止まるぞ!止まるぞ!とはらはらするコルフジュニアたちをしり目に実験動物は生存記録を伸ばし、ついには安定して6ヵ月まで記録が伸びるようになった。


福増博士には確信があった。


人も動物も、体調が悪くて休んでいるときは呼吸も緩やかで心臓も早鐘のようになるような拍動とは程遠く、ゆっくりと静かに拍動しているものだ。


だから動物が回復のために身体に起こす深い眠りのような状態を再現してみたのだ。


結果は大成功だった。


その2年後の1982年、この福増博士の実験データが基となり、ユタ州立大学医学部で完全永久型の人工心臓の人体臨床応用が成功し「月面到達にも匹敵する人類初の大快挙」と謳われ、世界中の新聞の一面を飾った。

その当時、朝刊でそれを見た記憶がある。


福増博士は人工心臓の世界的権威と呼ばれるようになり、母校、京大医学部で何を発見したのかを説明した。


全く理解されなかったが、福増博士は1998年春に再開された心臓移植チームを指導しており、心臓外科医としてのノウハウはちゃんと継承されている。


だが、福増博士が本当にやりたかったことは1990年から8年間かけてやったことの方なのだ。


心臓移植もその途中経過に過ぎなかったのだ。


福増博士の人生をかけた結論である触手療法によって、難病とされているものも容易に回復した例すらある。


そこには現代医学が全く見落としている筋肉の重要な働きがある。


それを明らかにしただけでなく治療法まで確立したのが福増博士である。